2008年9月19日 (金)

【夢の超特急】

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新幹線0系電車
1964年、東京オリンピックの直前に開通した東海道新幹線の最初の電車です。
この電車が2008年11月をもって最終運転、姿を消すことになるそうです。
この姿を見て「新幹線!」と思う人も少なくなってきたかもしれませんね。

この電車は初めての新幹線電車というだけでなく、日本の技術の結晶であり高度成長期のシンボルでした。
世界最高速度250km達成ということで「はしれちょうとっきゅう」という歌もでき・・・
「びゅわーん、びゅわーん、走る、青いひかりの超特急・・・・」という歌は幼稚園での人気の歌でした。
ちなみに2番の歌詞は「びゅわーん、びゅわーん、走る、丸いひかりのボンネット・・・」
0系電車の特徴でもある丸い「ひかり前頭部」を歌ったものですね!
この先頭の丸い形は当時「飛行機のようだ!」と言われて斬新なものでした。
絵本でもこの電車の扱いは特別!当時は電車も角ばった四角、ほとんどは電化され機関車もごつごつしたもの。
その中でなめらかな曲線美は新鮮なものでした。
そして青いラインも「新幹線ブルー」と言われる、当時の客車のような紺色系ではなく鮮やかな青。
歌にもあるとおりです。

あれ?白は?・・・・新幹線って白と青のツートンじゃなかったっけ?

と思った方は国鉄後半かJR後の方、初代新幹線の色は「白と青じゃない」!?
写真で残っている当時のものはまだ白黒が多く、カラーも退色して白っぽくなっていますが、
当時の色は「クリーム色と青!」それも見るからに肌色っぽい。特に前頭部はやや茶色がかったクリーム色・・・
私もこの色は鮮明に覚えています。当時は真っ白な車両は考えていなくて、サビ止めや汚れを考えての色だったのかもしれません。
確かに歌「はしれちょうとっきゅう」でも「青いひかり・・・」は出てきますが、「白」は出てきていません。
後で100系電車が登場したときくらいから塗り替えられたそうで、今回最終運転での色も当時の塗料がもう無いということで、白と青になっています。
私も記憶に残っているのは今までの電車に無かった鮮やかな青。これが高速で走る姿が憧れだったんです。

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そしてこの電車は今は亡き祖父との思い出なんです。
まだ幼稚園にも行けない私を、絵本でみて「しんかんしぇん!」と喜んでたので、何度も新大阪駅に見に連れて行ってくれました。
何度も、何度も。
両親とはほとんど会うことがなく、祖父母に育てられていた私が絵本で見て喜んでいる姿に本物を見せてくれたのです。
帰りにはミナミや梅田の百貨店の大食堂や中華料理店などで、ちょっとした豪華な気分を味わっていました。

でも人形が大阪名物の店だけには行かなかったんです。
なぜなら・・・祖父は元その店の料理長!
その後当時の美食家たちだけが通える超高級レストランの総料理長となりました。
周りから聞いたところでは、もし10年若かったら「料理の鉄人」に出場したこと間違いなかったようです。
なぜなら祖父は元従軍調理師。しかも呉鎮守府の士官付け料理人、当時の最高の食材を扱える数少ない人だったのです。

その祖父は料理だけではなく、とにかく好奇心の塊で新しいもの好き。
晩年、遠くまで歩けなくなるなるまでお気に入りの場所は「東急ハンズ」。
新しいグッズを買いに行ったり、科学雑誌を買ってきては面白い記事があると切り抜きしていました。

新幹線もまた同じ。
幼い私を喜んで連れて行ってくれました。
暑い夏の日でも、真冬の雪の日でも・・・
これが「事件」の原因となってしまいました。

雪の降る寒いホームの端に度々現れ、入ってくる列車を見つめる老人に手をひかれた幼児が・・・
思いつめるように列車を見て立っている・・・・
「もしや・・・早まったことを・・・・」
気になった駅員さんが声をかけ、駅務室に連れて行かれたそうです(*^_^*)

事情を聞いてなあんだと大笑い。
確かに当時は最新鋭の乗り物。見物に来る人も多かったそうですが、顔を覚えられるくらい来る人はいないですよと言われたとか。
私は駅員さんとはしゃいでいたそうです!なぜか当時の丸いストーブのある役務室で「うんてんしゅしゃん!」と
感動したことを今でも覚えています。新幹線の説明や駅の説明をしてくれてとても親切だったことも覚えています。
当時の新大阪は駅のホームに役務室兼乗務員室があったそうです。
それの想い出がたぶん、今の鉄道好きのベースになったんでしょうね。

さて、祖父はもうひとつ才能があって、それは大工仕事。
それも日曜大工という程度ではなく、戦後すぐに大阪にやってきて西成区に移り住んだのですが、
大阪大空襲による焼け跡のたった2件焼け残った家のひとつを買い取り、その裏にコンクリートの頑丈な離れを建築したり、
トイレを木の古いものから陶器の新しいものに換えて、タイル張りをして新しく立て直したり、
台所も昔のかまどからダクトつきのキッチンにしたり・・・
プロ顔負けの才能だったようです。

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そして星が好きになった私を当時理解してくれた唯一の人でした・・・
小学校、中学校と行くようになり、図鑑とプラネタリウムでしか星を見ることができない町の空。
祖父はもともと物干しがあった屋根の上に足場を組んで、「観測所」を作ってくれたんです!
中学校のときにはそこにお年玉をためて購入した赤道儀反射望遠鏡で、晴れた夜はいつでも観測できました。
天文学者になりたいと思っていた私に、両親は「星なんぞ見て金になるか!」と猛反対してましたが、
祖父はそっと支えてくれていたんです。

その祖父も、一人暮らしをはじめ、結婚して離れて暮らしてから逆になかなか会えなくなり、
数年前に亡くなりました。90歳、食事をしようとしたときに急に眠ってしまって・・・老衰。
新潟の豪商の次男に生まれ、役者として大阪で活躍し、戦時中は一流料理人、大工仕事もやれる科学大好き人間。
好きなことを仕事にして、奔放に生きた多才な人でした。

私が結局、星の道を選んだのも祖父の影での支えがあったからだと思います。
あのときまわりの言葉だけに流されていたら、私は父のように事業家として成功はしたかもしれない。
でも人間として「自分が好きな自分」にはなれなかったかもしれない。
それに星空とは離れてしまっていたでしょう、それに「夢」を捨ててしまっていたでしょう・・・・

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今、0系最終運転のポスターをみて・・育ててくれた祖父を思い出し、感謝しています。

この新幹線0系電車には「ひかり」「こだま」という列車名のほかにもうひとつ列車愛称があります。

【夢の超特急】

人々が1本の鉄道に夢を託した時代。
これ以上素敵な電車の名前があるでしょうか・・・
この電車に「夢」をつないだ人間が、私のほかに何人いるでしょうか・・・

21:25発0系新幹線

ありがとう0系新幹線 ブログパーツ

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2006年11月10日 (金)

今も銀河鉄道は走り続ける・・・少年の心の中に・・・

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「ズームカー」関西の鉄道ファンの間ではわりと知られていますが、あまり聞きなれない名称ですね!今、コンビニで手のひらに乗る模型がありますヽ(´ー`)ノ
これは車両の総称。南海電鉄が高野線用に作り出した車両です。(昭和33年より)
南海高野線はふたつの「顔」を持っています。「通勤通学路線」として多客輸送と高速輸送を行う「顔」と、「登山鉄道」という最大50パーミルの急勾配鉄道・・・
過去、このふたつの鉄路(顔)を克服するために、山岳路線と通常路線を別の列車で運転していました。
しかし、私の子どものころには複線高速路線は河内長野市の三日市町にまで延長され、宅地開発もされていました。
この二つの異なる線路にカメラの「ズームレンズ」のように対応し、走行するために誕生したのがこの「ズームカー」です。
21000系と呼ばれるこのノスタルジックな前面の列車は、通常線路では時速100km以上で「急行」としての高速走行の役割を果たし、山岳路線では50パーミルという普通の電車では単独走行できない急勾配を力強く上り下りするのです。

この電車は私が少年時代を過ごした時代の花形でした。
小学校の夏といえば「林間学校」・・・行き先は高野山。
霊山として、空海の地としても有名なこの地は大阪南部からいちばん「銀河に近い地」でもありました。
貸し切り列車でわいわいはしゃぎながら行く林間学校は卒業旅行と並んで、いちばんの思い出でした。
まさに「夏の思い出」そのものがこの列車でした。

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そして小学校を卒業からは・・・「天の川に出会いに行く列車・・・」
電車で行ける天体観測の地、高野山へ運んでくれる列車・・・
この車両の全長は他の通勤車両の20mより短い17m。急カーブを通過するために短く作られた車両。
ですがなんば駅に発車を待つこの列車は、まだ少年の私にとっては「大気圏外航行用宇宙船」に見えました・・・
この列車に乗れば「銀河に出会うことができる・・・」
そして得たものはたくさんの大きな宇宙への夢でした。

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今ではこの車両は引退し、一畑電鉄や大井川鉄道で走り続けています。
星空のきれいなこの路線でまた走り続けているのです。。。
暑い夏の日、静岡まで会いにでかけてきました。
風鈴がたくさん鳴る古い駅舎に走ってきたこの電車は、小学校の思い出と銀河鉄道の思い出を運んできてくれました。

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今では新しい2000系「新ズームカー」が通勤通学の足として活躍し、険しい山岳路線に挑んでいます。
見かけは今時の銀色の車体ですが、全ての車両に大きなモーターを搭載したこの列車も。。。
かつての昔懐かしい電車に似た「ゴー!」という独特の大きな音で、銀河目指して走り続けています・・・

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2006年10月15日 (日)

【想い出の赤い電車】流れ星みつけた・・・

【名鉄谷汲線】2001年9月30日廃線・・・・

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名鉄、名古屋鉄道の電車は赤い色をしています。その色がいちばん美しく見えるのは夕暮れと朝焼け・・・

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この線は私鉄のローカル線として鉄道ファンから親しまれてきました。その沿線は緑が多い山沿いと、せせらぎが残る川沿いという季節の移ろいを感じられる場所がいっぱいでした。中でも「更地駅の桜の木」は有名でした。

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そして夜になれば満天の星空!自動車で出かけたときには夜には星空を眺めながら過ごしました。夜明けの始発列車を待ったときもありました。また廃線の前年には「しし座流星群」の観測地にここを選びました!数こそは少なかったですけれど、もう二度と見ることはできない。谷汲線と流星の姿をここで見たかったのです。その願いは・・・今では撤去されてしまった谷汲線の架線とすばるに流れる流星の姿としてフィルムに刻まれています。ここはまさに「銀河鉄道の駅」だったのです。

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そこを走っていたのはモ750形という昭和3年製の真っ赤な電車と、時々応援で走るモ510形という大正15年製の赤と白の電車。特にモ750形は旧名古屋鉄道時代に製造された古豪という言葉がぴったりのものでした。

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製造から間もなくの昭和7年には鉄道省(後の国鉄)高山本線との直通運転が始まったことで、名鉄線は電車で、高山本線は汽車で牽引されて運転され、後の「たかやま」「北アルプス」の先駆けとなりました。その後は名鉄の600V線を転々としながら岐阜線、谷汲線、揖斐線を走りました。

木の窓、リベッドどめの車体、ワックス塗りの床、昔ならではのモーターの音・・・・「昭和」を駆け抜けた電車でした。しかも走るのは四季折々の風景の中・・・冬には豪雪地帯としても有名なところで、雪の中を力強く走る姿は普段ののんびりとした姿が一変、どんな状況でも乗客を運ぶという「意志」を持ったかのようでした。

名鉄に惹かれたのは名古屋の科学館のプラネタリウムへ見学に行ったとき。「新名古屋駅」(現在の名鉄名古屋駅)で奇妙な音を出して入ってくる電車が!!それがパノラマカーとの出会い。そしてJAFの雑誌で見た犬山橋で特急列車と走ったり、支線の赤い電車を追いかけるようになりました。その中でこの谷汲線と出合ったのです。

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カメラの修理もだいぶ慣れて、ミノルタのAR-1もアルファ7000も数台、レンズもたいがいのものは写せるまでにそろいました。天体写真でもこの一度死んだはずのカメラたちは、存分に威力を発揮し、台数の必要な流星撮影などでも出現個数確認や、流星痕の撮影などの成果をあげていました。しかし天体は「バルブ」が使えて、望遠鏡に取り付けたり、レンズもピントは無限にできれば撮影可能。一般の昼間の風景や人物などではピント、露出、絞りなどの様々なことを考慮して、数少ないシャッターチャンスを狙わねばなりません。当時はすでにデジカメが主流になりつつあり、フィルム一眼レフカメラは高機能のオートフォーカスが勢ぞろいしている状況です。私の修理していたミノルタのMDカメラはピントはもちろんマニュアル。AR-1などは露出計さえないので、絞り値、シャッタースピードは全て「手動」です。アルファ7000も単純な風景写真ならオートフォーカス、自動露出可能ですが、逆光や雨、曇天、動きの早い色の差が大きいものでは到底使い物にはなりません。鉄道の雑誌などにある写真など撮影できるものではなく、自分自身も現像が仕上がってみて「やはりダメだった・・・・」と落胆することの繰り返し・・・・

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でも「経験」とは恐ろしいもので、次第にフィルムの感度と露出調整が身についてくるもの。初めは古本屋で手に入れた昔の撮影方法をマネてみたり、グレースケールや古い露出計も使っていましたが、何年か経験していると、「この場所でこの季節でこの天候なら・・・」と何となくわかるようになってきました。その上「このシーンは少し暗めにして表現したい・・・」とか「ピントと被写体をこうしたい・・・」という意図的に調整した写真も撮影できるようになったのです!それもこの真っ赤な夕日の似合う名鉄の色彩と、四季の変化の大きい谷汲線の沿線の風景のたまもの!そして素人ながらも、やっと自分でも「こんな写真を撮影したかった・・・・・・・」と思えるようになりました。

しかしそれは谷汲線の廃線のときでもあったのです・・・・

廃線の話を聞いた時は、いつかは来ることだと思いました。休日は名鉄いちばんのポイントだけに鉄道ファンもいますが、平日の昼間など乗客は私一人だけ・・・文字通りの「ワンマンカー」ということも多い状態でした。廃線の話が出ると多少は鉄道ファンも多くはなりましたが、それでも休日に人がいっぱいなどなく、普段は地元の方が数人程度・・・でもゆっくり写真は撮影できましたし、いちばんは「乗車券」!!今年最後になった、南海、近鉄、名鉄3社線が3日乗り放題の「3・3・SUNフリーきっぷ」を使うのですが、「廃線抵抗」とばかりに谷汲線内は別途乗車券を購入!でもこれがいいんです♪特に「谷汲駅」は自動ではなく【手売り!!】当然のことですが昔懐かしい「硬券」です!当然降りるときにはワンマンカーですから運転手さんの横のきっぷ入れに入れないといけないのですが・・・「記念に持って帰りたいのですが・・・・」と言うと・・・・JRとか他の私鉄でも改札でそう申告すると「使用済」とかの印をボン!と押されて持ち帰りとなるのですが・・・・運転手さん「では裏に列車番号を書かせていただきますね」とペンで列車番号を書いて持ち帰りさせてくれます。。。。。これってすごい【記念!!!】表には乗車駅、区間と日付。裏には乗車した列車番号!乗ってるのが一人のときはもちろん【世界でたったひとつの乗車券】となります!!しかも硬券で!!

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廃線が近くなると、惜しむ鉄道ファンが増えて運転本数も増やし、普段は谷汲山への観光に休日のみ増発し、「北野畑駅」で見えたタブレット交換もファンの格好の撮影対象となりました。ここは単線で「信号」がなく、タブレットで列車の行き違いをしていました。

廃線になるまでにこれだけたくさん乗ってくれていたらなあ・・・・としみじみ感じながらの別れ。廃線の日の谷汲線はすごい人でしたので、ほとんど写真も撮影しませんでした。ここの本当の素晴らしさは「廃線」というイベントではなく、今まで私の写真をずっと鍛錬してくれたこと・・・・それは年々変ってゆく被写体の写り具合に年輪のように残されています。

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想い出は35mmのフィルムの中にもう数多く残されています。もう去ってしまった小さな赤い「銀河鉄道」・・・・でもそこで出会った数多くの星たちは今も私の記憶の中で走り続けています。

プラネタリウム室の日記帳:http://stonekenji.air-nifty.com/nasuka/
那須香大阪天文台:http://www.nazca-osaka.org/

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2006年10月 1日 (日)

青春の【新快速恋物語】

新快速

鉄道ファン「鉄っチャン」はご存知ですね!この列車!
去年の鉄道の日に「リバイバル運転」された117系「初代」新快速車両です!
(それまでも113系や165系がありましたがあれは「転用」ですから(^^ゞ)

でも今回は<純粋な>鉄道ネタではありませんm(。。)m
業界(?)では鉄の男(??)とも呼ばれている私にも短い青春期はあったんです♪
その青春物語、「なすかの青春物語」みたいなものです♪

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20前のとき、神戸でアルバイトしてました。(親にもナイショで!!)
別に特別なこともなかったんですが、普通に働き・・・普通に恋をしていました♪・・・
同じところで働いていた子だったんですが、すごく星が好きという点では一致していたんですが。
最悪なことにケンカ友達でした(><)
とにかく何かあれば口ゲンカ!それをバイト先まで持ち込むんですからもう最悪です!
私も若くて融通の利かないころ(今でも?(^^ゞ)ですし、彼女も気が強くて口達者な方でしたから、お互い衝突すると「虎」と「竜」!でも口ゲンカを2次会、3次会・・としていくうちに、
お互いの本心、若い純真な心と感情、そして愛情をぶつけ合わせていたんですね。
バイトの上の人から、「仕事中やぞ!ええかげんにせ~~!!」っと怒られたこともありましたが、
同僚連中は知っていたものですから、まわりはニヤニヤ・・・・後で「おまえら、まっとうなつきあいしとう~?」って言われる有様でした、たしかに「異常な交際」に見えたでしょうね~^^;

でも夜となれば三宮の駅キタやディスコ(今ではクラブって言いますよね!)、それにBESTはできたばかりのポートアイランド!!【ポートピア】と「ゴダイゴ」の歌で一躍神戸の名所となったそこには観覧車、ジェットコースター・・・・遊びには退屈なんてしません!
夜遊びしました~バイト仲間にステキな彼女!それにどんどんにぎわう神戸の町並み・・・・
ほんと気軽に、休みの日にはどこ行こうか?夏には須磨海岸、冬には六甲山!デートスポットはいくらでもありましたし♪仲間たちとみんなで西宮浜で焼肉たらふく食ったり!
お互いの彼氏、彼女自慢やグチ言い合い・・・・普通の青春ドラマでしょうね~

まだ有馬のほうはそんなに明るくなくて、三田の方まで足を伸ばせば星空もけっこうきれいでした。
そんな感じで昼に、夜に、街も星空も輝いて見えました。
天の川を見に行きたくて、車がなかったんで、夏には一晩、少し寒い山の中で過ごしたり。
でも好きな女の子と一晩過ごせるチャンス!寒いなんてぜ~んぜんって感じでしたが^^;
確かにそれまでも星が好きだった私は、いつしかそんな楽しい日々と星空にすっかり入り込んでしまったんです。
普段は阪神電車で通っていたんですが、ちょっと楽しみなデートや、待ち合わせの時間に遅れたときなんかは値段の高い国鉄の新快速を使ってました。想い出にあるのはデートに待ち合わせのときに、またまたこれ運悪く、地下鉄車内で、降りるところで突然転んだおばあちゃんにつきあって、駅長室と救急車まで・・・・1時間近くの大遅刻!!当時は携帯電話なんて気の利いたものなどあるはずはなく、デートの遅刻で「ハイッ!さよなら><」という悲劇も多かったときです!「阪急じゃさらに大遅刻!乗り換えも遠い(><)!」ということでこの「新快速」の出番☆となったのです。。。ハラハラドキドキの車内でしたが、センター街の入り口で微笑む彼女の口から出た言葉は「大丈夫だった?」・・・・・今では考えられないのんびりデートだったのかもしれませんね(^^ゞ
なにせ30分ノンストップで三宮ですからそれは超特急モノです。内装も当時は特急列車並みの117系、新快速のためだけに作られた当時としては異色の車両です。
大阪~三宮だけのちょっとリッチな気分でもありました・・・・・

しかしその新快速を終着駅まで乗る日がきたんです・・・・
あまりにも突然でした。

あの日の電話は、いつもの同僚で遊び友達の声・・・・
でも泣き声がただ聞こえるだけでした・・・・
どうした?どうした?何度たずねたか覚えていません。
ただ彼女が事故で死亡したことを、搾り出すような声で聞き出せただけでした・・・・

「また」、別れの言葉ひとつかけることができませんでした。
それまでに友人二人を亡くしていた私には何も考えることもできず、ただ空洞になった思考があるだけ。何もできなかった・・・・後悔、虚無感だけが残されます。
そしてその空洞を埋めるために、すべてを捨てることにしました。
同僚や仲間たちには感謝していましたが、私には「今の自分の存在」そのものが忌まわしいものだったのでしょう。
慰め、励まし、同情・・・・数多くの言葉ももう私を止めることはできませんでした・・・・
死ぬことも、生きることもできない運命と多すぎた突然の別れ・・・・
ただ彼女の両親の手と「ありがとう」の言葉だけが唯一、氷のような私の心を暖めてくれました。

そしてもう一度あの新快速に乗る決心をしたんです。
今度は終着駅まで、そしてその先まで、行けるところまで・・・・
帰るところの無い旅であることは覚悟していました。そして行くところも・・・・
行く先を導くのはカバンの中の1本の小さな天体望遠鏡。

大阪駅を出るとすぐに六甲の山が見えてきました。
楽しい冬を過ごし、今では彼女の眠る六甲の山。
最後まで届かなかった「ありがとう」の言葉がめぐる二つの瞳・・・
あまりにも早くに星になった仲間たちを求めるように、
「新快速」は西に向かって走り続けました・・・・

・・・・・那須香始動にはまだ5年の月日が必要でした。

プラネタリウム室の日記帳:http://stonekenji.air-nifty.com/nasuka/
那須香大阪天文台:http://www.nazca-osaka.org/

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以前のブログからの転載記事です。これからちょっとした書き物をここに書いておこうと思います^^;

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